「無知の知」~教育者としての矜持

「EDU PLUS J」 
  CEO SHOICHI SAITO

 

無知の知」~教育者としての矜持~

 

しばらく書かずにいました。
いや、正直に言いますけど、書けずにいました。
時間的な問題もあって、と言えば何か格好が付くような気もしますが。
そうではありません。
書けませんでした。

迷いがあったからです。

 

私は日本国内の、200万政令指定都市の中学校で、初めて校長職を経験した後に、一般教諭として再び中学校の教壇に立ちました。
敢えて、一介の一国語教師として、生徒の前に。
再び。

授業は実に15年ぶりです。
ドキドキしますよ、そりゃ私だって。
生徒に受け入れられなかったらどないしょ!
もう、退路を断って後戻りできないし。
その政令指定都市、中学校長を歴任した教育委員会・校長経験者初の快挙、ではなく暴挙。
異色だったと思います。

もっと、楽な生き方も当然ありました。
一般的に言われる、いわゆる「美味しい仕事」へのお誘いも無かった訳ではありません。
いや、他の校長に先駆けて、そのお声がけを頂きました。
天下りのミニチュア版。

今だから言えますが
何故、固辞するのか、当然理解されません。
なぜ?
何か理由があるのか?
他にやりたいことがあるのか?
しまいには、私の誘い方が悪かったのか?とまで聞かれる始末。

(ご免なさい、そのような風に思わせてしまって。私はこう見えてもそんなに性格悪くないです。たまに、怒られていじけたりはしますが、、、笑。)
最後は個人的にも親しく盟友でもある、最終ラインのお方から。

 

ですから、「敢えて」と書かせて頂きました。
なぜそうしたのか。
理由は実は誰にも明言していませんが、非常にシンプル。

 

それが「カッコいい!」と思ったから。

 

けっして、「子どもが大好きだから!」とか、「最後まで教師としていたいから」などといった、大それた美しいものではありません。
でも、そのことこそが、私にとっての教育者としての矜持、「カッコいい!」だったのです。格好良さって何?そんな薄っぺらな!って、その事だけで一つのコラムになります。また後ほど書きたいと思います。もちろん、なぜまた校長として、ここ、EURO DUBLINにいるのかもね。

 

一教師に戻って、まず感じたのは圧倒的な時間的制約でした。
一教師としての充実感や、やり甲斐、達成感、楽しさ、悦びと言った、エモーショナルな点は別にして。
わずか、一年間ではありましたが。この齢にして、生徒から教わることのなんと多かったことか、感謝の言葉が見つかりません。自分の世界を大きくして頂けたと手を合わせたい思いです。(ありがたや!ありがたや!)

 

現在の、この海外の日本人学校補習校での、土曜だけの勤務状況はその時に較べると、時間的な点では天国、桃源郷です。
生活のスタイルも激変しました。
テレビを一切見なくなりました。
一人ですので、全て自分の意思で時間を自由に使えるようになりました。
本を読み、多くの情報に触れ、思索できる時間ができました。
新しいことを知れば知るほど、自分が知らない世界がもっと多くあることに気づきました。
いわゆる「無知の知」です。

 

それで、たどり着いたのが、
この「EDU PLUS J」。
いったい、誰に向けて発信していくのか?という問題です。
子どもの教育の専門家?
不特定多数、何方でも?
読みたい方に読んで頂く?
でも、それでは私自身が自分を見失いそうです。
随筆の大先達も「そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」とおっしゃってますから。

自分が生徒へ作文指導を行うときも、
まず、大切なのは五つの言語意識。
一、目的意識
一、相手意識
一、方法意識
一、場の意識
一、評価意識
を明確にしなさいと指導してきました。
そう指導しておきながら、自分自身がやらないというのでは、お天道様の下を歩けやしません。

この「EDU PLUS J」。
過去二回の投稿のログ履歴を見ていますと、私のFbからこのブログを覗きにいらしてくださってる方が圧倒的に多いです。
しかも、Fb上のお友達が200人ぐらいまでは、同じ教育の世界に関係する人がほとんどでしたが、今は1100人を超え、圧倒的に教育関係以外の方が多い。
教え子も多く、同年代の若い方もとても多い。

 

これからの、「EDU PLUS J」

・将来の子育てに備えようと思う人
・これから子育てをしていきたい人
・子育て真っ最中の人
・子どもの教育に悩んでいる人
・世の中に溢れかえっている子育て情報の濁流に飲み込まれそうな人
・学校って摩訶不思議な世界!って思っている人
・先生って?、、、。と思っている人
・進路、進学、受験って何?と思っている人
・本当の子どもの幸せを願っている人

つれづれなるままに、このような市井の皆様に向けて、分かりやすく、簡単・明快に、しかもバッサバッサと、教育の世界の表も裏も、不条理も理不尽も、全てを知り尽くしたこのわたくしが、出血大サービス、一挙大公開。

CIAやKGBポロニウムや姑娘のハニートラップに罹ろうとも、教育者としての矜持で、行っちゃいます。もう、怖いものないですからぁ~。

 

次号の予告。
「学校という名の魔界」に棲まう、「評価」「評定」の不思議!
でっす!
乞うご期待!


ちょっとだけ、先読み

 学校教育に付きものの不思議の一つに、「評価」「評定」があります。
そもそも「評価」は子ども達のやる気を促し、意欲を喚起するものでなければなりません。従って「先生は私のことを評価してくれた!」や「評価されなくてがっかりした!」という表現の意味合いにおいては「評価」は嬉しいもの、して欲しいものという意味で使われています。しかし、それが単なる子どもの「値踏み」「値付け」に成り下がっていることのなんと多いことか!


 本来の評価は子どもをより良く導くための働き、「機能」を持っているものでなければならないのです。「評価」されることで、やる気を失ったり、自信を無くしたりするぐらいでしたら、評価などしない方がいいのです。評価などせずに、黙って放っておいた方がまだましです。子どもにすれば、余計なお世話、放っといてくれ!です。


 しかし、比べることで負けたくないという気持ちや、負けた、劣った悔しい気持ちをバネに頑張ることができるというのも、子ども達の潜在的に持っている素晴らしい力であり能力です。ですから、その場合は優劣をつけます。これが「相対評価」(集団に準拠した評価)です。文部科学省はそんな目的ではないと、打ち消しに躍起ですが、各都道府県毎の平均点で優劣を争う、「全国学力学習状況調査」。全国的な民間試験「NRT」等はこれにあたります。。、、、ところが、(続く)。

 

EDU PLUS J 
CEO SHOICHI SAITO  27/06/2019