海外子女教育の現場から

 

国語教育が専門で、作文指導・スピーチ指導・言語表現指導もその専門の一つです。日本の学校教育の現場で実践を重ねて来ました。今、改めて海外在住の子ども達へ国語科教育、特に表現活動への指導をどのように行っているのか、その一端をご紹介致します。

「魚つり」というタイトルで、以下のように文集掲載作文を小学2年生が書き上げました。

 

魚つり 

                                 ダブリン日本子女補習校 小学部二年 齋藤 けいご(仮名)

 ぼくは、アイルランドではじめてつりざおをかいました。
前に日本で、きすやあじをつったことがありました。その時とてもたのしかった思い出があります。アイルランドではどんな魚がつれるかと思いました。
 そこでおとうさんにつりざおをかってもらいました。ぼくは、魚つりがすきになりました。なぜならば、いっぱい魚がつれるし、たのしいからです。
 むずかしいところはさおをひき上げるタイミングと、とおくにえさをなげることです。まつのはつまらないけれど、魚をつりたいからがんばることができます。魚がつれるときはつりざおがふるえます。そのときぼくは心の中で、やったとさけびます。糸をまいたら魚がつれます。そしてフックをぬいてバケツにいれます。
 家ではお母さんがに魚を作ります。とてもおいしいです。
いつか大きいさばをつりたいです。

 

この作文を書いた生徒がこの後、全校朝会でスピーチを行うことになりました。私はこの作文をベースにスピーチを行うのであろうと考えていました。ところが、お母さんは発表の一週間前に、別のテーマで新しい作文を仕上げ、それを発表させたいと仰ってきました。

しかし、なかなか子供が作文をうまく書けずに困っているというのです。そこで、私にアドバイスを求めてきました。私はどの様に返信したのでしょうか。

私の返信を以下にご紹介したいと思います。

 


齋藤 愛子 様(仮名)

いつもいつもお世話になっております、補習校の齋藤です。
けいごくんのスピーチについて、ご連絡ご相談頂き、誠にありがとうございます。

けいごくんのスピーチへ、お母様からもサポート頂けますことを、とても嬉しく思います。
その上で、私からのアドバイスも頂きたいとのご依頼を、有難く思います。

まず、シャムロックの掲載予定原稿「魚つり」ですが、この作文もとても生き生きと良く書けた、素晴らしい作文だと思います。
その事を、是非ともけいごくんに伝えてあげて欲しいと思います。

「魚つり」はアイルランドへ来て、初めてお父さんに釣竿を買って貰った喜びが書かれています。大好きになった魚を釣るドキドキ感などの自分の心の動きが、子どもらしく素直に生き生きと描写されています。
「魚がつれるときはつりざおがふるえます。そのときぼくは心の中でやったとさけびます。」の表現は秀逸です。

「つりざおのふるえ」はけいごくんの心の震えでもあるのですね。その震えるような喜びを、声には出さずに、心の中で「やったとさけぶ」けいごくんの、優しい繊細な気持ちが読む人の心を静かに打ちます。

さらには、それをお母様に美味しく料理して頂けるという、お父さん、お母さん、けいごくんの、家族の微笑ましい絆までもが描かれているのです。

なぜ、このような良い作文を書くことが出来たのでしょう。
それは、
・けいごくんがとても嬉しかったこと、楽しかったことを中心に書いています。

(自分の感動体験を中心に)
・「魚つり」との新しい出会いを中心に書いています。

(新しい出会いを中心に)
・お父さんに釣り竿を買ってもらい、お母さんに美味しく料理してもらえる喜びを書い

 ています。

(大切な人、ものを中心に)
・実際の釣りの方法と、その折々のけいごくんの心の動きを、分かり易く説明してくれ 

 ています。

(説明や描写も大切に)

大きくは以上の四点にまとめる事が出来ると思います。


作文の力を付けるために、「魚つり」をさらに、表現に工夫を凝らし、推敲しながら加除修正を加えるという方法もありますが、新しい作文に取組まれているようですので、以上の四点について書かれます事を、ご指導頂けますと幸いです。

どうして、また書かなければならないの?という疑問が心の何処かにあると、口には出さないかも知れませんが、子どもなりに、納得できず蟠りが残っていて、作文や表現活動の阻害要因になる事がよくあります。
その時にまずは、繰り返しになりますが、「魚つり」がとっても良かったので、自分の勉強になるし、お父さん、お母さん、そして担任の先生や、校長先生もけいごくんの、新しい作文を読みたくて、聴きたくてワクワクしているよ、とお伝え頂ければと思います。

私が作文指導、スピーチ指導をする時に、大切にしていること、基本的な事は、次の五つの言語意識と言われている内容です。
① 目的意識(なぜ、何のために書くのか)
② 相手意識(誰にむけて書くのか)
③ 方法意識(どのような発表の方法なのか)
④ 場の意識(それはどのような場で伝えるのか)
⑤ 評価意識(それはどの様に評価されて、振り返る事ができるのか)

上記の内容を、小学2年生なりに理解し、納得して書くことが出来ますと、効果的に作文への意欲も格段に増して、書き進める事が出来るようになると思います。

更には、より具体的な事ですが、最初から完成品を書こうとすると、なかなか筆が進みません。作文は大人でもとても難儀で厄介な作業です。
最初から原稿用紙に書き始めるのではなく、ノートやただの紙に、ラフスケッチのように、箇条書きや、項目、あらすじを断片的に書きつけるという作業をお勧めします。
「したこと」「やってもらったこと」「言ったこと」「見たこと」「聞いたこと」「思ったこと」等の項目ごとに書きつける作業です。その後、小学2年生段階では、大まかに「はじめ、中、おわり」で、構成を考えて書きつなげていくと良いと思います。

「題名の工夫」「印象的な書き出しの工夫」「効果的な会話の挿入」「効果的な情景描写」「余韻のある終末表現」「言葉の吟味」等は、今後、発達段階に応じて、学んでいけるものと思います。

全校朝会でのご発表を、作文指導の良い機会と捉えて頂けておりますことを、とても嬉しく思っております。
大変にお手数をお掛け致しますが、どうぞよろしくお願い致します。

 

ダブリン日本子女補習校・さくら幼稚園 齋藤

 

ご自身のお子様への作文指導。さらには教育現場における国語教室でのご指導に、日夜ご尽力戴いております、有為の指導者の皆様にとりまして、幾ばくかでも作文指導、表現活動のご参考となることを願っております。

 

EDU+J  SEO    SHOICHI SAITO

 

 

魔界学校に棲まう「評価」の不思議!

「EDU PLUS J」 
  CEO SHOICHI SAITO

 

「魔界学校に棲まう「評価」の不思議!

 

「通知票」をどう受け止めるか

~「評価」は子どもをより良く導くための働き、「機能」を持っているものでなければならない~

前回の予告では「学校という名の魔界」に棲まう、「評価」「評定」の不思議!というタイトルでしたが、えっらく長いので、「魔界学校に棲まう「評価」の不思議!としちゃいました。

本の学校では、いよいよ来週一週間で一学期も終了し、児童・生徒は手に手に「通知票」なるものを持って、我が家に帰ってきます。

この学校教育に付きものの一つに、「評価」「評定」があります。しかし、そもそも「評価」は子ども達のやる気を促し、意欲を喚起するものでなければなりません。従って「先生は私のことを評価してくれた!」や「評価されなくてがっかりした!」という表現の意味合いにおいて、「評価」は嬉しいもの、して欲しいものという意味で使われています。

本来の評価は子どもをより良く導くための働き、「機能」を持っているものでなければならないのです。「評価」されることで、やる気を失ったり、自信を無くしたりするぐらいでしたら、評価などしない方がいいのです。評価などせずに、黙って放っておいた方がまだましです。そのような気持ちで、「通知票」をもらう心構えを、子どもも親も持つことが大切です。

 

相対評価」(集団に準拠した評価)の魔力

~全員同じ様にできちゃあ、困るのよ! 差が付くような問題だすぞ!~ 

 しかし、比べることで負けたくないという気持ちや、負けた、劣った悔しい気持ちをバネに頑張ることができるというのも、子ども達の潜在的に持っている素晴らしい力であり能力です。ですから、その場合は優劣をつけます。これが「相対評価」(集団に準拠した評価)です。

国学力学習状況調査や、民間テストである教研式標準学力検査「NRT」はこれにあたります。特に「NRT」は前年度に学習した内容の定着度が、日本の全国平均と比較できるため、海外で暮らす子ども達には参考となり、意義あるものと言えます。ダブリン日本子女補習校でも、これを採用し毎年実施しています。北海道、札幌では文化協会の学力テスト(道内だけで実施されている地域限定のテスト)が普及しているため、実施している学校はあまり無いようです。
 ところで、問題の内容なのですが、従ってはじめから子ども達に「差」が付くような問題になっています。集団の中での位置(優劣)を定めなければならないからです。殆ど満点、ほとんど零点では、集団の中での位置が分かりません。また、問題も日本の教育大学附属学校の教員が中心となって、問題作成を行っています。附属の子ども達が出来たり、出来なかったりするだろうという感覚が問題作成者の側にありますから、いきおい難しかったり、絶対的に時間が足りなくなったりします。ですから「NRT」の平均点はどの学年も50点前後となるように予想して作成し、結果もやはり50点前後となっているのです。

現在の学校の評価は絶対評価 ~評価のインフレ状態がどこでも起こっています! 5の価値は昔と大違いです!

 一方、現在の日本の学校の評価(通知表も含めて)は絶対評価(目標に準拠した評価)で行われています。絶対評価の特徴は、集団の中での位置(優劣)を定めなくても良いのです。学習目標に到達していれば、(問題が出来ていれば)人数に関係なく高い評価を与えることができます。期末テストはこれに当たります。

 実際に私が校長として勤めた日本の中学校では、教科によっては学級の全生徒35人中、評定5がなんと20人以上の教科がいくつも ありました。(20年程前までは相対評価でしたので5は学級に3人程度でしたから、隔世の感があります)個々の子ども達の努力が評価・評定にストレートに結びつきやすくなります。また、教師の側も5を出しやすいのです。(実技教科などは、総じて評価の高止まり、インフレが起きています)

 

内申点」の不思議! 3年生の時だけ良ければいいの? 

 はい!そうです! え~!? 大都市は総じてそうなのです!

「評定」は文部科学省の定める学習指導要領に基づいた、各教科の観点別評価(国語科であれば「①関心・意欲・態度、②話すこと・聞くこと、③読むこと、④書くこと、⑤言語事項」の5観点)を総合した、「5・4・3・2・1」の数字の値で示されます。

中学校であれば、この評定の合計点が、高校入試などでの合否選抜で用いられる、いわゆる内申点(個人調査書)となります。

 実はこの内申点ですが、なんと全国の都道府県によってその扱いには差異があります。札幌市の場合、(他、秋田県広島県等)この「内申点」(3年間の全ての学年毎の成績の合計点)と「入試点」(高校入試当日のテストの得点)の総合点で、公立高校の合否が判定されます。

 しかし、東京都、大阪府兵庫県など他の都府県では3年生の時だけの評定しか内申点として使用されません。札幌市の場合はその比率は5対5ですが、東京都の場合(第一次募集・分割前期は原則3<内申点>:7<入試点>、分割後期・第二次募集は原則4<内申点>:6<入試点>)となり、試験当日の入試点重視となっています。(どちらが良いかというよりも、地域性や私立学校との関係に起因するようです。)

 いや、はっきり言いましょう。大都市圏では私学(中高一貫有名進学校等)優位で、公立学校が信用されていないのです。それは、高校の側からしても同じ見方であって、公立中学校の評価が信用ならないと思われているからです。


 その他には、推薦入試という選抜方法も併用されます。東京都の場合、(定員の20%~30%を推薦生徒として合格させます)。検査内容は内申点50%、他の50%は面接、集団討論、《小論文または作文、実技、学校設定検査のうち一つ以上》の点数となっています。(※一部の高校で,面接の一部に「自己PR」,「パーソナル・プレゼンテーション」,「英語による問答」等を行っています)
 都道府県別の選抜方法は、教育教材出版会社のHPの一覧が分かりやすく、参考になります。                     (www.sing.co.jp/info/exam_info/selection_index.html)
 

 ところで、この「5・4・3・2・1」の評定ですが、一学期、二学期、三学期と、学期毎に学校から「通知表」として貰って来るきまりになっていると思われていないでしょうか。
 実はそうではありません。極端に言えば、「通知票」は一学期が終わっても生徒へ出さなくて法令上は良いのです。法令に定めたれた学校公簿「指導要録」では一年間分のまとめの評定を、記載するようになっているだけです。ですから、日本の多くの学校で「通知表」として学期毎に出している評定はあくまでも仮評定です。児童・生徒の意欲付けや現在の生活・学習の様子を知り、次の学期の奮起を促すために、各学校では学期毎に出しているところが多いのです。教科によっては各学期毎の評価ではなく、一年を前期と後期に分けて、二回しか出さないとしているのはそのためなのです。

 

「EDU PLUS J」 
  CEO SHOICHI SAITO

 

「無知の知」~教育者としての矜持

「EDU PLUS J」 
  CEO SHOICHI SAITO

 

無知の知」~教育者としての矜持~

 

しばらく書かずにいました。
いや、正直に言いますけど、書けずにいました。
時間的な問題もあって、と言えば何か格好が付くような気もしますが。
そうではありません。
書けませんでした。

迷いがあったからです。

 

私は日本国内の、200万政令指定都市の中学校で、初めて校長職を経験した後に、一般教諭として再び中学校の教壇に立ちました。
敢えて、一介の一国語教師として、生徒の前に。
再び。

授業は実に15年ぶりです。
ドキドキしますよ、そりゃ私だって。
生徒に受け入れられなかったらどないしょ!
もう、退路を断って後戻りできないし。
その政令指定都市、中学校長を歴任した教育委員会・校長経験者初の快挙、ではなく暴挙。
異色だったと思います。

もっと、楽な生き方も当然ありました。
一般的に言われる、いわゆる「美味しい仕事」へのお誘いも無かった訳ではありません。
いや、他の校長に先駆けて、そのお声がけを頂きました。
天下りのミニチュア版。

今だから言えますが
何故、固辞するのか、当然理解されません。
なぜ?
何か理由があるのか?
他にやりたいことがあるのか?
しまいには、私の誘い方が悪かったのか?とまで聞かれる始末。

(ご免なさい、そのような風に思わせてしまって。私はこう見えてもそんなに性格悪くないです。たまに、怒られていじけたりはしますが、、、笑。)
最後は個人的にも親しく盟友でもある、最終ラインのお方から。

 

ですから、「敢えて」と書かせて頂きました。
なぜそうしたのか。
理由は実は誰にも明言していませんが、非常にシンプル。

 

それが「カッコいい!」と思ったから。

 

けっして、「子どもが大好きだから!」とか、「最後まで教師としていたいから」などといった、大それた美しいものではありません。
でも、そのことこそが、私にとっての教育者としての矜持、「カッコいい!」だったのです。格好良さって何?そんな薄っぺらな!って、その事だけで一つのコラムになります。また後ほど書きたいと思います。もちろん、なぜまた校長として、ここ、EURO DUBLINにいるのかもね。

 

一教師に戻って、まず感じたのは圧倒的な時間的制約でした。
一教師としての充実感や、やり甲斐、達成感、楽しさ、悦びと言った、エモーショナルな点は別にして。
わずか、一年間ではありましたが。この齢にして、生徒から教わることのなんと多かったことか、感謝の言葉が見つかりません。自分の世界を大きくして頂けたと手を合わせたい思いです。(ありがたや!ありがたや!)

 

現在の、この海外の日本人学校補習校での、土曜だけの勤務状況はその時に較べると、時間的な点では天国、桃源郷です。
生活のスタイルも激変しました。
テレビを一切見なくなりました。
一人ですので、全て自分の意思で時間を自由に使えるようになりました。
本を読み、多くの情報に触れ、思索できる時間ができました。
新しいことを知れば知るほど、自分が知らない世界がもっと多くあることに気づきました。
いわゆる「無知の知」です。

 

それで、たどり着いたのが、
この「EDU PLUS J」。
いったい、誰に向けて発信していくのか?という問題です。
子どもの教育の専門家?
不特定多数、何方でも?
読みたい方に読んで頂く?
でも、それでは私自身が自分を見失いそうです。
随筆の大先達も「そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」とおっしゃってますから。

自分が生徒へ作文指導を行うときも、
まず、大切なのは五つの言語意識。
一、目的意識
一、相手意識
一、方法意識
一、場の意識
一、評価意識
を明確にしなさいと指導してきました。
そう指導しておきながら、自分自身がやらないというのでは、お天道様の下を歩けやしません。

この「EDU PLUS J」。
過去二回の投稿のログ履歴を見ていますと、私のFbからこのブログを覗きにいらしてくださってる方が圧倒的に多いです。
しかも、Fb上のお友達が200人ぐらいまでは、同じ教育の世界に関係する人がほとんどでしたが、今は1100人を超え、圧倒的に教育関係以外の方が多い。
教え子も多く、同年代の若い方もとても多い。

 

これからの、「EDU PLUS J」

・将来の子育てに備えようと思う人
・これから子育てをしていきたい人
・子育て真っ最中の人
・子どもの教育に悩んでいる人
・世の中に溢れかえっている子育て情報の濁流に飲み込まれそうな人
・学校って摩訶不思議な世界!って思っている人
・先生って?、、、。と思っている人
・進路、進学、受験って何?と思っている人
・本当の子どもの幸せを願っている人

つれづれなるままに、このような市井の皆様に向けて、分かりやすく、簡単・明快に、しかもバッサバッサと、教育の世界の表も裏も、不条理も理不尽も、全てを知り尽くしたこのわたくしが、出血大サービス、一挙大公開。

CIAやKGBポロニウムや姑娘のハニートラップに罹ろうとも、教育者としての矜持で、行っちゃいます。もう、怖いものないですからぁ~。

 

次号の予告。
「学校という名の魔界」に棲まう、「評価」「評定」の不思議!
でっす!
乞うご期待!


ちょっとだけ、先読み

 学校教育に付きものの不思議の一つに、「評価」「評定」があります。
そもそも「評価」は子ども達のやる気を促し、意欲を喚起するものでなければなりません。従って「先生は私のことを評価してくれた!」や「評価されなくてがっかりした!」という表現の意味合いにおいては「評価」は嬉しいもの、して欲しいものという意味で使われています。しかし、それが単なる子どもの「値踏み」「値付け」に成り下がっていることのなんと多いことか!


 本来の評価は子どもをより良く導くための働き、「機能」を持っているものでなければならないのです。「評価」されることで、やる気を失ったり、自信を無くしたりするぐらいでしたら、評価などしない方がいいのです。評価などせずに、黙って放っておいた方がまだましです。子どもにすれば、余計なお世話、放っといてくれ!です。


 しかし、比べることで負けたくないという気持ちや、負けた、劣った悔しい気持ちをバネに頑張ることができるというのも、子ども達の潜在的に持っている素晴らしい力であり能力です。ですから、その場合は優劣をつけます。これが「相対評価」(集団に準拠した評価)です。文部科学省はそんな目的ではないと、打ち消しに躍起ですが、各都道府県毎の平均点で優劣を争う、「全国学力学習状況調査」。全国的な民間試験「NRT」等はこれにあたります。。、、、ところが、(続く)。

 

EDU PLUS J 
CEO SHOICHI SAITO  27/06/2019

 

新しい時代の資質能力~ことば(母国語)の力の育成こそ~

「EDU PLUS J」  CEO SHOICHI SAITO

 

新しい時代の資質能力~ことば(母国語)の力の育成こそ~

「教育」EDUCATIONにおいて、その最も深遠なるもの。

その一つは「ことのは」。言葉でありましょう。

母体に抱かれた時からずっと聴いてきた音の波、「ことのは」。

それは、やがて母の唇から伝え聞く母語「Mother tongue」となり、思考の全てを司るのです。

新学期のスタートにあたり、ここIreland在住の子ども達にも、全教科の教科書が外務省大使館を経由して届けられます。(実際、大使館へ出向き4箱もの段ボールを校長宅に一時保管して、始業式にまたそれを学校まで運び、というアナログな作業の果てに、ですが)

教科書を私が担当している中学2年生に配った時のことです。

新しい学年になった喜びと一緒に、次々に各教科の教科書に目を通していきます。

組・名前を書いていた時、

一人の生徒が、隣の生徒に、ある教科の教科書を持ってこう言いました。

「みて、みて、2年生になっても、こんなことやってる!」

「この教科書いらないんじゃない!」

笑いながらでしたので、冗談交じりではあったのですが。

その通りだと私も思いました。

もちろん、その教科は「英語」。英語の教科書を最後までパラパラと見て、この程度の内容は全てわかる、できると思ったのでしょう。

Irelandの現地校では、この子達は月曜から金曜まで、All Englishで全ての授業を受けています。

では、日本の子ども達もこのIrelandの海外子女に負けないように、もっと英語の授業時数を増やして、他の教科をドッサドッサと容赦なく削って、、、。

何か変だと思いませんか。

追いつけません絶対に。授業時間をどれほど増やしても、目の前のこのIrelandで学ぶ子ども達に。それどころか、他の教科の学力低下は言わずもがなでしょう。

しかし、日本の新しい学習指導要領(全国の義務教育諸学校の指導内容の基準・規準を示しています)は、同じ事をしようとしています。特に、小学校ではそれが著しく甚だしい。

中学校では、旧学習指導要領で、すでに英語が全教科の、どの教科よりも授業時数が多いのです。1年生から3年生まできっちり、一週間に4時間づつあります。日本語である、母国語の国語がそれより、少ないのです。(3年生は一週間に3時間しかありません。しかも1,2年生の一週間4時間は書写の時間を含めてです)

日常会話ぐらいは、大人になってからでも短期留学や、ホームステイ、長めの旅行をすれば、話せるようになります。一般的な日本人はそれで十分じゃないですか。(私が、現にそうです。二ヶ月ちょっとしか経っていませんが、日常英語で不自由することなんてありません。丁々発止の難しい商談をするわけでもありませんから。)

育てるべきは、英語であれ、日本語であれ、手話であれ、それらの手段を使って、他者とコミュニケーションをとろうとする態度、姿勢、心ではないのでしょうか。

それは、何によって育まれるのでしょう。

日本語、母国語、国語ですよね。

幼児から始まる、読み聞かせ、小学校での美しい発音、声の響き、朗読にたっぷり浸ってこそ、中学での言葉による芸術、文学、文芸に感動したり、伝え合うことの喜びに心震わせることができるのではないでしょうか。

「EDU PLUS J」は国語の再興を訴えます。

その国のことばが失われたとき、その国は無くなるのです。

 

そのための一冊のご紹介です。私の専門は国語教育です。(それ以外にも、読書教育、図書館教育、絵本指導、海外子女教育等、色々手を広げていますが)

私が日本にいるときの刊行物で、最も新しい書籍です。

明治図書刊「深い学びのある国語科授業づくり」~6つの観点・10のクエスチョンと12の実践提案  齋藤 昇一 監修 / 市川 恵幸・高橋 伸 編著 

私は、北海道国語教育連盟という、小学校と中学校が一緒になった国語教師の全道組織の委員長を務めていました。この国語教育連盟の総力を挙げた一冊です。附属小・中をはじめ、道内各地の第一線、第一級の執筆者に分担執筆をお願いしました。

また、編著者には市川君、高橋君の最も私の信頼するお二人にお願いしました。

奇しくも、この四月から私はDublin日本人学校補習校へ、市川君は札幌市教委へ幹部として再び教育委員会へ戻り、高橋君は札幌国際大学人文学部・現代文化学科の教授に請われその職に就き、三人が三人ともそれぞれの道を歩んでいます。三人が共に同じく時と場を共有することが出来たからこそ、実現した一冊です。

教員のみならず、ご家庭でどのような言葉の育み方があるのか、とても参考となる一冊となっています。日本全国の書店でお求め頂けます。ネットでの購入も可能です。全ての子どもに真の母国語、ことばの力を身に付けるため、ぜひお買い求め頂ければ幸いです。

 

05/06/2019   「EDU PLUS J」 CEO SHOICHI SAITO

 

 

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明治図書HP

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日本での一番新しい刊行物

 

Greeting 「EDU PLUS J」 CEO SHOICHI SAITO

Greeting 「EDU PLUS J」

CEO  SHOICHI SAITO  

 

始まりました。教育ブログ(EDUCATION PLUS J)(EDUCATION +J)。

略して「EDU PLUS J」「EDU+J」。

商標登録予定。

このブログは日本(JAPAN)の「教育」(EDUCATION)に関連する、役立つ(PLUS)情報を発信していきます。

ですから(EDUCATION PLUS J)(EDUCATION +J)。

これから、さまざまな「日本の教育の今」への提言を、EURO在住の

「EDU PLUS J」CEO SHOICHI SAITO が発信していきます。

EUROを通し、世界を知れば日本がわかる!

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

今、なぜ改めて「教育」(EDUCATION)なのか。

日本では、コーチングだとか、カウンセリングだとか、インストラクター、アドバイザー等、等、等。教育関連用語とそれに基づく生業が、雨後のタケノコのように昭和の後半から闊歩し始めました。

特にそのどれもが、今までの「教育」にはなかったと決めつけ見限り、「支援」「引き出す」といった、あたかも今までの教育にはなかった、新しい指導方法であるかのように吹聴、流布されてきた感が否めません。

私はそのことに対して、ずっと違和感を覚えてきた一人です。

そもそも「教育」は、その全ての指導の要素を包含した営みでなかったのか、今更、なぜ教育の一部分を取り上げて、新しい教育の姿、あり方などと言うのか、という問いであり、率直な疑問です。

英語のeducationフランス語の`educationにおいては、educateの語源educoが「引き出す」ことを意味し、ドイツ語のErziehungにおいてもerziehenは語源的には「 外へ引き出す」意味をもっているということは周知の事実 です。

戦前の漢語の意味における「教育」は、どちらかといえば教育の目的を注入主義的な、模範の習得に重きを置き、上からの働きに強調点がありました。

しかし、戦後の教育は西欧的な人間のもっている成育、発展の可能性に 強調点を置いた、前述の「引き出す」「もともと持っていた良さや可能性を伸ばす」教育であったはずです。戦後教育の民主主義、国や首長から独立した教育委員会制度はそのことを可能にしてきました。

私は、戦後の昭和後半からの教育の姿を、半世紀近く、学校教育の現場で見続けてきました。間違いなく、「教育」はコーチングやカウンセリングの思想や技術を、内包したものであったという確信を持ち得ています。

「EDU PLUS J」の開設にあたり、基本的な立場、立ち位置を明らかにさせて頂きたいと思います。

それは「教育」(EDUCATION)の再評価であり、

今日の日本の教育の「EDUCATION  RENAISSANCE」なのです。

まずはそのことをお伝えしたいと思います。

 

03/06/2019  「EDU PLUS J」CEO  SHOICHI SAITO